ヒューマントラストシネマ有楽町で公開中のケン・ローチ監督作品「家族を想うとき」を鑑賞した。映画館のスクリーンに映し出されるリアリズムは圧巻であった。
前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」の日本公開が2017年だったので、おおよそ2年振りの作品だ。前作は、病気の為に仕事ができず、社会福祉を受けようとするが、手続きが上手くできない為、福祉を受けられず、生活が困窮していく妻に先立たれた中年男性の話だった。圧倒的なリアリティで弱者が弱者たるゆえんを描き切った。
そして、今作だ。同じく中年男性が主人公であるが、本作の主人公リッキーは家族がいる。高校生とおぼしき息子と娘、訪問介護士の妻。借家住まいのリッキーと妻アビーの願いは自分たちの家を持つこと。そんなリッキーが個人事業主として宅配ドライバーの仕事を始めたところから物語は始まり、家族の生活は緩やかに転落への一途を進むのであった。
まず、個人事業主として契約するにあたり、リッキーは配送用の車を用意しなければならなくなった。そこで、妻が訪問介護の足として使っている車を売却し、新たな車を購入することになった。なんだ、それ。そうだ。この作品は、「なんだ、それ」とツッこむところが多い作品なのだ。家族のために家を買いたい、その思いで宅配ドライバーの個人事業主になるが、のっけから車を買う為に車を売る。そして、一日14時間、1週間に6日働く生活となる。妻は今まで車で訪問介護を行っていたが、亭主の為に車を売り払ってしまったのでバスでの移動を余儀なくされ、家族と一緒に過ごす時間が減る。息子セブは多感な年頃ということも相まってグレ、グラフィティに熱中していく。セブ、なんだ、それ。ある日、息子は学校でけんか騒ぎを起こし、学校を停学となったり、父親から怒られて逆切れして家の壁にスプレー缶でバツ印をつけまくって逃走したり、グラフィティ用のスプレー缶を万引きしたりとやりたい放題。セブ、家が貧しいからって万引きなんてしなくて、バイトでもして、スプレー缶買えばいい話じゃねぇか。なんだ、それ。それで、タダでさえお金が無いのに父親はお前の為に罰金払ったりしるんだぜ。息子はもう一人いるようで、その息子の為にリッキーは借金をして学費を払い大学へ行かせ、コールセンターに就職しているようだった。しかし、万引きセブの話では週末毎にパブに行き憂さ晴らしをして、俺はあんな生活したくねぇとか言ってやんの。なんだ、それ。万引きして捕まったお前に言われたかねぇよ。
妻のアビーもアビーだ。訪問介護で時間外の介護にも応じるいい人だ。でも、そんなの自己満足でしかない。精神的にも金銭的にもギリギリなんだから、応じる必要は無いのだ。アビーの代わりの介護士を派遣しない会社の責任だ。彼らは自分の為に生きてないのだ。それで幸せならいいだろう。僕らは時間もお金も無くなって、でも、幸せだよね、ってんならいいのだ。でも全然幸せじゃない。家を買う為に無理して働く。リッキーは眠い目をこすりこすり車の運転をして、あやうく事故を起こしそうなる。仕事を休んだら休んだで罰金を請求される。すべては家族の為だ。何故なら家を買いたいから。借家か持ち家かなんてちっとも問題じゃないと思うのだ。家だってどうせローン組んでしか買えないのだし、そのローンが払えなくなったら家を売却して返済に充てなければならず、出て行くことになる。あんたらみたいな貧乏家族だったらローンが払えなくなる可能性の方が大きいだろう。
家族の絆。なんと美しい響きだ。しかし、「家族だから」という暗黙の了解がプレッシャーとなり、本作品のような末路となってしまった。人間、無理しちゃ駄目だ。飛行機の酸素ボンベと同じなのだ。飛行機に搭乗すると、酸素ボンベの着用方法についてのレクチャーがある。まずは自分が酸素ボンベをつけ、安全が確保された後に、自分の子供に酸素ボンベをつけてやるようにとも説明がある。自分の酸素ボンベすら着用できてない人が他の人に酸素ボンベをつける手助けなどすべきではない。共倒れになるからだ。これは酸素ボンベだけではない。お金の無い人が誰かに寄付するなんて、馬鹿な話だと思う。それは親子関係でも言えることではないのだろうか。グレて学校に行かなくなり、停学となるくらいなら、行きたくない学校だよな?じゃあ、学校をやめてくれたら助かるよ。俺ら、学費払えねぇし。働いて家計助けてくれよ、大学出たところでコールセンター勤務が嫌なんだろ?もう、退学して働いてくれよ、と、何故言えない?言えばよいのだ。
私は家族の絆なんて無い、美しくない人生を歩んでいる。しかし、私は自由だ。そして、リッキーのような家族を憂いている。そして、観たい映画を観て、自分の為に生きている。家族の為に自分の身を滅ぼすなんて本末転倒だと思う。自分の為に生きる素晴らしさを教えてくれた作品であった。