雨宮まみ著:女子をこじらせて を読んでみた

先日読んだ能町みね子の「結婚の奴」で雨宮まみという人の存在を初めて知った。「グータンヌーボの章」で、女性ライターの枠にひとくくりに入れられると少々居心地が悪いものの、雨宮まみについては同業者と感じたと書かれていた。

残念ながらこの方は2016年に亡くなっていたが、雨宮まみについて強い思いを持って書かれていた。この方はご本人の自宅にて事故で亡くなったようなのだが、他の章では冷静な能町みね子が雨宮まみの死に対し、悲しみではなく苛立ちを持って対峙していた。興味が湧き、早速Kindleで2011年に出版された著書「女子をこじらせて」をダウンロードした。

数年前から「こじらせ女子」というワードがネット上に飛び交っていることはなんとなく知っていた。しかし、同世代の女性AVライターの著書から派生した言葉とは知らなかった。

読むほどに作者の闇に触れ、またしても私の心臓はちくちくしてしまった。共感できる部分が多すぎるのだ。女子としてのクオリティの低さを見て見ぬふりをしていたあの日。過剰なまでに卑下し「そんなことないよ」という言葉を待つ自分のさもしさ。能町みね子の言葉を借りて言えば、「全然違うふるさとの話をしているのに思い出がどこかで重なっている」のだ。

私は著者のようにバニーガールとして働いたことも無いし、AVに造詣も深くないし、友人の恋人と枕を交わしたことも無い。しかし、劣等感の元になるものはさほど変わらないのかもしれない。

私は今や死語となってしまったサブカルをこじらせ、女子をこじらせ、何者でも無い自分に対し劣等感を増幅させ、自分探しの旅先で道に迷ったままでいる。これは典型的な中二病の症状だろう。中二病を完治させることなどとっくに諦め、この病とはおそらく一生の付き合いになるだろうと私は腹をくくっている。

こじらせ上等! 

能町みね子著:結婚の奴 を読んでみた

40代半ばで未だに結婚経験の無い私。2019年の調査によると、生涯未婚率は男性23.4%、女性14.1%だそうだ。この生涯未婚率というのは50歳までに1度も結婚したことが無い人のことなので、結婚したことの無い人というのは現代においてマイノリティらしい。

私は昔から子どもが欲しいという思いが希薄なせいか、結婚するとか、所帯を持つということがあまりピンとこなかった。加えて、異性から強く求められたことも無く、また、私が魅力を感じた異性は私に対してそれほど興味を持たないという具合で人生の大半を過ごしてしまい、恐らく私に恋愛は不向きなのであろうと少し前に結論を出したつもりであった。

もはや恋愛とは都市伝説とさえ思えるようになっていた。巷には恋愛話が数多く転がっているが、自身の身の上には何も起こらない。

指をくわえて待っているだけでそのような結論を出すのは時期尚早と思った私は、出会い系サイトに登録したし、お見合いパーティーへも参加した。それらを通じて積極的に異性と出会ったが、彼らとは瞬く間に疎遠になり、何も起こらなかったのである。何度か向かい合わせでコーヒーを飲み、話をしてみたものの、何も起こらない。自分の身の上には起こらない以上、恋愛は都市伝説だと思えばしっくりくる。

恋愛以外に楽しいこともあるだろうし、それもまた人生と開き直りつつ、東京に居を移し2年が経とうとしていた。

そこへ、新型コロナウィルス騒動が発生した。緊急事態宣言が発表され、あらゆる企業の活動自粛が奨励され、ステイホームの号令の下、人々は家に閉じこもざるを得なくなった。街はゴーストタウン宜しくシャッターが下り、人影が消え、ゾンビが歩いていても何ら不思議ではない様相と化した。

絶賛転職活動中であった私は職探しを中断せざるを得ず、好きな映画館や寄席にも行けず、狭い部屋の中で悶々と過ごす日々を送ることになり、死を強く意識した。

この場合の死とは、新型インフルエンザに疾患の末の死では無い。人は最終的には死を迎える。健康な人もそうでない人も、裕福な人もそうでない人も、美しい人もそうでない人も、例外無く必ず死ぬ。人生の終着点としての死を意識した。

私は誰にも触れられず、誰に触れることもなく、家の中で干からびて死んでいくのかと恐ろしくなった。この時、誰かと共に生きるということを意識した。恋愛は諦めた。でも、気心の知れた誰かと暮らすのもよいのではないか。そこで、この10年程、ごくたまに連絡を取っていた異性の友人に結婚を提案してみた。彼は驚きながらも、前向きに検討する、とのことだった。

そんなところに、この「結婚の奴」だ。

能町みね子の存在を知ったのは2005年頃だったと思う。

その頃、私は九州の田舎町で若さを消耗していた。

ネットサーフィンで時間をつぶす日々を送っており、お気に入りのサイトがいくつかできた。その中のひとつに「オカマだけどOLやってます」という個人ブログがあった。このブログを書いているブロガーその人が能町みね子であった。ブロガー本人が描いた自画像のイラストも可愛らしく、性同一性障害の男性が女性として働く日々が綴られた読み応えのあるブログであった。

その後、タイで性別適合手術を受け、晴れて女性となったのであるが、その頃は私も転職や家移りを繰り返す日々だったこともあり、以前程はネットサーフィン自体をしなくなっていった。※「オカマだけどOLやってます」は書籍化されている。

それから何年も経ち、そのサイトの事を忘れかけていたある日、週末の夜の番組「ヨルタモリ」に存在感のある金髪女性が出演していた。私にとっての2度目の能町みね子体験であった。

私が知らぬ間に著書を多数出版する人気作家となり、すっかり有名になっていた。それ以降、彼女は時折タモリ倶楽部に出演したり、彼女の名前のついた不定期番組に出演したりして、動く能町みね子を目にする機会が増えていた。

折しも時代はSNS。遅ればせながらアカウントを取得し、彼女のツイッターのフォローを開始したところ、くだんの著書が紹介されていた。

私は勝手に能町みね子は小説を書き始めたのだと思い込んでおり、フィクションとして読み進めていたのであるが、数ページ読んだ後、本当に彼女の身の上に起こったことを書いていると気が付いた。

本書は制度としての結婚を利用し、「恋愛感情の無い結婚」について綴っているものであった。

恋愛感情の介在しないことを双方合意の上での結婚への道のり。同居後も唇を重ねることなど皆無で進む結婚生活。

この「結婚」に大きく関わったであろう学生時代からライターとなってからの出来事がつぶさに描かれており、それらの出来事を読み進めるうちに思い出したことがあった。それは太宰治の小説を初めて読んだ時に感じた痛みだ。固くなったかさぶたを自分の爪でゆっくりと剥がしたが、傷口は癒えておらず、じゅくじゅくした皮膚があらわになったような鈍い痛み。

私は結婚を提案した相手と本当に結婚するのだろうか。もしかしたら、私たちは恋愛の後、結婚するのかもしれないし、結婚の後に恋愛するのかもしれない。恋愛にもならないし結婚にもならないかもしれない。とりあえず今は、どこまでできるのか、試してみようと思っている。

みんな、どうやって結婚したんだよ。それも2回も3回も。ズルい!